2016年07月29日

日常生活は学びがあふれています

児童・生徒にとって勉強することはとても大切ことです。
教科書を広げて読む。ドリルや問題集に取り組む。やらなければならない勉強はたくさんあります。

では、何かを身につけるという行為に対して、私たちは単純に勉強すればいいということができるのでしょうか。まあ勉強さえしていればというものあるのですが、勉強に関していえば、一つだけどうしても勉強だけでは身につかないものがあるというのも事実です。塾の先生の中にはよく「〇〇のセンス」などと言い表すものです。〇〇には教科の名を入れていいでしょう。「算数(数学)のセンス」、「英語のセンス」、「理科のセンス」といった感じでしょう。「センス(Sense)」とは、ここでは本能的な勘、あるいは知的な感覚といってもいいでしょう。「あの人、服のセンスがいいわよね」などというときの「センス」とほぼ同義であると言えます。この「センス」について、多くの場合は先天的、本能的なものとしてとらえられ、ある児童・生徒についていえばそれがすでに備わっている前提であるようにとらえられて学習指導に反映されていく場合もあります。一方、この「センス」がない児童・生徒についても、もともとないからそれがないようことを前提にして学習指導に反映されることが多々あります。それの方が時間をかけずにある一定の成果を上げることができるのですから、結果論としてはよいと思います。

ここで考えたいことは、この「センス」とよばれるものは、それがもともと「ない」と断じられた児童・生徒に備えさせてあげることができないのだろうかということです。この「センス」があるのかないのかがいわゆる苦手意識というものとつながっているように思います。例えば、図形の問題が苦手な児童・生徒にとって、図形についての勘が働かないから、与えられた問題が解けない、だから苦手だというように意識の形成がなされていくとみることができます。そういう児童・生徒さんに「図形が苦手なら図形の勉強をがんばろう」というのもちょっと酷な気がしませんか。「逆上がりができないなら、ずっと逆上がりをしていなさい」と同じぐらい無謀なことをしているように思うのです。大切なことは図形の問題がなぜ苦手であるのか。図形の学習こそ「センス」が必要な部分があります。与えられた図形の成り立ちを見極める、あるいは与えられた図形に別の要素を加えることで別の図形を創出するといったことは本能や勘によるところが大きいと算数や数学を指導していると思うことが多いのです。しかし、それがもともとないと断じられた児童・生徒にしてみれば、そんな問題これから先一生解けないではないかとあきらめの境地へ向かわせてしまいます。そうなれば、同じような図形の問題をずっと勉強していても何かしっくりこない思いをし続けてしまうことになるでしょう。そこで大切なことはそういう「センス」をこれからでも身につけることができるよという提案なのです。(これが早い時期であればあるほど良いことは確かなのは当然です。ただ、そうでなくてもというのもあるとことも事実です。)勉強だけでは身につきそうもないものをどのように身につけていくのか。それは日常生活に知的な意識を持たせていくことです。

算数の計算のセンスがない…、まずは自分の身のまわりにどれぐらい数が存在するでしょうか。電話番号、番地、年齢、身長、体重、食器の数、家の部屋の数、学校の階段の段数…あげればきりがありませんね。そして、そういう数字をいろいろいじくってみてはどうでしょうか。自分の家の番地を全部たしたらいくつになるでしょうか。全部かけたらいくつになるでしょうか。前を走る車のナンバーを全部たしたらどうなるでしょうか、2ケタずつに区切ってひき算したらどうなるでしょうか。家のコップの数は全部でいくつだろうか、コップの種類を分けながら計算してみるといいですね。お風呂場のタイルは全部で何枚あるでしょうか、かけ算をつかって計算してみてはどうでしょう。答えは数えればわかります。要するに日常生活の中で数字と親しむように働きかけることが大切なのです。
図形のセンスについても同様です。図形のセンスに必要な要素は形状と大きさの見極めです。家の中でいろいろな家具の長さをはかってみてはどうでしょうか。家の中にあるいろいろな道具はどんな形でできているでしょうか、別の方向からみたらどんな形に見えるでしょうか。そういう意識の持ち方が「センス」を磨いていくことにつながっていくのではないかと提案できます。

机の上での勉強以外にも、私たちの身のまわりには勉強のきっかけはいくらでもあるのです。いかに日常を知的に生きるか。そのあたりがわかると、日常生活が知の海に変わってきます。その海を多くの児童・生徒のみなさんに泳いでもらいたいと思っています。
posted by めがね先生 at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2016年07月28日

耳と口の話

こんにちは。

今更ながらの更新です。

書きたいことは山ほどあるのですが、…。

気づいたらもう夏…でした。

さて、久しぶりの更新。テーマは「耳を鍛える」です。

「耳を鍛える」……耳をひっぱれ!ではありません。耳を使って話を聞けるようにしようということです。

「耳が聞こえるよ」ということでもありません。集中力を研ぎ澄まして聞いてみようということです。

ぜひ、一度試してみてください。

人が言ったことを復唱できるでしょうか。英語の学習では先生がしばしば「Please repeat after me.」と言いながら単語や英文の復唱を指示しますが、それが正しくできるでしょうか。
これは英語だけではなく、日本語についても同様です。といっても、これは言語の習得についてのみの話ではありません。あらゆる学習についてこのことができるかどうかという話になります。要するに、先生が言ったことを繰り返し言えるぐらいに集中してそれを聞いているかいないかということです。また、それができるのかできないのかということでもあります。家でお父さん、お母さんが言った指示を、子どもがその指示通りにできるかどうか。案外、このあたりのことは耳の力によるのかなと思います。

先日、市内で開かれた論語の素読の会に参加してきました。ただ声を出して論語を読むというだけの会です。(論語以外にも昔の文献の音読もしました。)私も大きな声を出して読みました。まだ、今のように教育が体系だっていなかった時代、学びの場で行われたのが素読です。先生の後について論語を含む古典を読むということをしていたのでしょう。

「子曰く、学びて時にこれを習う、亦た、説ばしからずや。…」

これを心地のよいリズムで読む。そうすると、自分が中学生、高校生、大学生だったころを思い出すのです。

中学生。英語の授業で、先生の「Please repeat after me.」のかけ声がかかると、正面を向いて、単語や英文を復唱していたなぁ…。英語の授業以外では、他の教室からの英単語や英文を復唱している声が聞こえていたなぁ…。

高校生。古典の心地よいリズムにのって音頭していたなぁ。漢文を訓点に従って音読していたなぁ…。受験勉強の時には、英語の長文をブツブツと小声で読みながら取り組んでいたけど、部屋を通りかかった「一人で何かブツブツ話している…」と母親が気持ち悪がっていたなぁ…。

大学生。第二外国語(中国語)の授業は先生が厳しくて、復唱と暗唱で必死になっていたなぁ…。宿題でカセットテープに音読を吹き込んで提出するのがあり、生活音が入らない夜になってつっかかっては録り直してを繰り返していたなぁ…。

今から考えてみれば、私の受けた学びには音がついていたのですね。音がある学び。非常勤講師として私学で授業をしていても、最近はよその教室から音が聞こえなくなりました。英語、古典、…どんな勉強しているのかな。

ICT、自発的あるいは主体的(?)生徒・児童参加型学習、論理的思考力、グローバル人材育成…、いろいろなタームが耳に入ってきますが、地味な学びの中に人間の本能にふれる真実があるように思うのは古臭い考えなのでしょうか。効率化や損得によって切り捨てられた学びをもう一度拾って組み立てていくのが、小さな個人塾である小春学院のこれからの仕事であるように思ってなりません。
posted by めがね先生 at 21:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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