2016年08月10日

ありがとうございます。

こんにちは。

さて、小春学院は4月からちょっと模様替えをして、
1Fの教室を図書室にしました。
DSCN0873.JPG

まだまだ蔵書は少ないですが、これから増やそうと思っていたところ、
お近くに住むK様より本が寄贈されました。
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小学生、中学生にぜひ本でもらいたい素敵な本ばかりです。
ちなみに私はすでに1冊読みました。
地域の方々から心のこもった贈り物は本当にありがたいです。
(お子さんがもう大学生、高校生になって読まなくなったのでご寄付くださりました。)

K様、本当にありがとうございました。
小春図書室、もっともっと充実させていきますよ。
ご期待ください。
posted by めがね先生 at 22:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2016年08月04日

本を読まなくて困っています…

こんにちは。

「本を読まなくて困っています…。」あたかもこんな声をもらってその質問に答えるように見えますが、このような相談は受けていません。ただ、類似の相談として、

「本を読む習慣がなくて…。」
「本を読めなくて…。」
「本が嫌いみたいで…。」

ということは聞いたことがあります。ここで、この相談の本質をさぐりながら、それについての回答を考えてみましょう。

まずこの相談の主は保護者つまり大人です。本を読まないのは子どもです。保護者の方が本を読まない、本を読む習慣がない、本を読めない、本が嫌いということについて困っているということです。つまり困っているのは大人です。では、なぜ子どもが本を読まなくて大人が困っているのでしょうか。

少し話はそれますが、こんな質問をしてくる保護者の方がいらっしゃいます。

「本は読んだ方がいいですよね。」

ここが重要なポイントです。本を読むことが大切なことであることに大人自身が確信できないのです。そして、なぜ本を読んだ方がいいのかを大人が子どもに伝えきれないのです。
中にはこんなことをおっしゃる方もいます。

「本を読んだ方が、国語ができるようになると思うんですけど…」
「本を読むと漢字やことばを覚えられますよね…」

このように学習の効果と読書を結び付けて子どもに伝えても、勉強が好きでない子どもにはまったく響かないでしょう。そもそも、国語ができない、漢字やことばをあまり知らないのですから、そういう子どもからすれば読書は苦行です。読め、読め、というのは苦行を強いられているのに近いものです。

話を戻してみましょう。なぜ子どもが本を読まなくて大人が困るのか。それは勉強ができなくなることを心配してしまうからではないでしょうか。ここでいう勉強というのは学校という狭い範囲内での勉強ということです。さて、この心配は妥当性があるでしょうか。

こんな話を聞かせてもらったこともあります。

「うちの子、好きな本は読むんですけど…。」

そうです。子どもだって好きな本は読みます。それは読めるから読むのです。読めるというのは、読んで分かるということです。そして、そうであれば本を読みたいと思っているのです。読書についての相談から感じることは、大人と子どもの認識の差です。大人は子どもが目の前で読んでくれないとちょっと不安になってしまうのです。また、大人が考える読書の姿を子どもが見せてくれないと不安になってしまうのです。そうであれば、大人がこの世にはもっといろんな本があるんだよ、と本を見せて教えてあげればいいのではないでしょうか。これは言葉ではなく、本のそのものを用意して見せてあげればいいのです。こんな本もあるよ、これはどう…、最初はとっつきにっくいと思う子どももちょっと興味本位で手をのばしてくれるかもしれません。大人が読んでいればなお手を伸ばすと思います。

読書の習慣について言えることは、周りの大人の読書の姿勢を子どもは見ているということです。要するに、大人が読まないのに、なぜ子どもばかりがそう言われるのか、という思いを持たせては申し訳ないのです。最近流行りの「エビデンス」をこの件に関して持っているわけではありませんが、本がある、本を読む大人がいれば、子どもも本を読むようになるのではないかと思っています。

「本を読まなくて困っています…。」と心配される大人のみなさん、ぜひ本を用意してご自身が読書を楽しんでみてください。その姿に子どもは習ってくれるようになりますよ。大好きな人が読んでいる本を、人は自分も読んでみたくなりますからね。
posted by めがね先生 at 12:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2016年08月03日

何のため

こんにちは。

さて、ここのところ更新が多いのですが、それは時間があるからです。

ということで、今回は「何のため」という題で話を進めていきましょう。

「何のため」という題からその答えにいたる理屈を書いていくのかと思われますが、そうではないのです。勉強で何か作業をするのに「何のため」という理由づけというのは本当に必要なのでしょうかという疑問から話を進めていこうと思います。

「理由づけ」というと似たことばに「動機づけ」、カタカナ語で言えば「モチベーション」ということになるのでしょうが、どうもこの「モチベーション」ということばがやっかいなことばです。ここのところの学習、勉強に関する話に「モチベーション」をどう与えるかという方面のことばかりが語られ、「モチベーション」がなぜ必要であるのか、本当に必要であるのかが語られていないように感じられるのです。言い換えれば、学習活動、勉強をするには「モチベーション」が必要であること、「モチベーション」がなければ学習活動、勉強はできないかのようなことを印象として与える言説が多いように思います。

これは「モチベーション」というものの存在や効果を否定するということではありません。確かに「モチベーション」があるほうがないよりは効果を出すうえでは断然いいのです。
「モチベーション」ということばを「やる気」と置き換えてもいいでしょう。しばしば、学習の効果を「勉強の質(効率の良さや適切なやりかた)×勉強の量(勉強時間や演習量など)×やる気」と単純化した式で表すことがありますが、その式において「やる気」が0になってしまえば、学習効果は0になるというのは確かにわかります。ただ、ここで考えたいことはこの式の中に「やる気・モチベーション」という変数を入れる必要があるのかどうかということです。学習効果を念頭におけば入れる必要があるのですが、学習をする、勉強をするという行動に必要であるかどうかということです。

話を整理しましょう。私たちが学習をする、勉強をするというのは一生を通して必要なことです。児童・生徒・学生という身分であればそれは義務に近いことで、その身分から離れるほど、その義務から遠ざかりはしますが、人生を通して勉強をしていくということは必要なことなのです。そもそもそこに「やる気」という要素は入ってこない、あるいは入ってこなかったはずです。この要素が自分の学習への姿勢のバロメーターを左右する根拠となってしまったように思うところがあります。「今日は勉強のやる気が出ない。やる気がないときに勉強しても成果はないから、勉強やめておこう」なんていう話を聞いたこと、言ってしまったことはありませんか。たしかに、いつも勉強ばかりはできません。しかし、それが継続したらどうでしょう。いつ勉強するのでしょうか。先ほども述べた通り、勉強はしなければならないのです。楽しくなかろうが、面倒くさかろうがしなければならないのです。「やる気」がなくてもやらなければならないのです。効率が悪くても、だらだらとでも何かをすれば一歩進むのです。そう考えれば「やる気」がなくても勉強はできるのです。

話を戻してみましょう。学習や勉強の目的を知ることって本当に必要なのでしょうか。それがわからないから勉強できない、ということはおおよそないと言えます。心の面ではそうかもしれませんが、実際の行動として勉強を進めることはできます。それこそだらだらとでも何かをすれば一歩進むのです。その短い一歩の中にそれぞれの人の学習や勉強の目的は隠れているのかもしれません。そもそも勉強する前から勉強をする目的はわからないのです。勉強して何かがわかる、気づいたところにその目的もわかってくるのです。だからこそ、一人一人別々の思いで勉強を進め、それぞれがそれぞれの勉強によって自分の人生を築くことができるのです。

「何のため」と疑う前に、まずは勉強してみませんか?それが「何のため」を知る一番の近道であると思いますよ。
posted by めがね先生 at 22:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2016年08月02日

ふと思うこと ふと思うこと

こんにちは。

ふと思うことです。

カレーを作りたいと思います。(ここではライスは省略)
材料の準備から始めます。
・じゃがいも・にんじん・豚肉(余裕があれば牛肉?)・たまねぎ・インスタントのカレー粉(楽だから?)…など
調理器具は
・なべ・おたま・ほうちょう・まないた・計量カップ…など

準備も整いました。では作りましょう……何!作れないって!

さあ、何の話だと思いますか?

(例)
「食物連鎖」とは、「植物→草食動物→肉食動物」といった生物どうしの食べる・食べられるの関係をもつつながり、とざっくり言えます。では、次の生物をその関係で説明してみよう。
[ケイソウ・バクテリア・ミジンコ・メダカ・ヤゴ]

「食物連鎖」とは何か。[ケイソウ・バクテリア・ミジンコ・メダカ・ヤゴ]がどんなものか分かる(特に難しい生物ではないです)。こういったことが知識つまり材料です。この材料を使って実際の課題に取り組むのに必要なのが「考える」という作業です。カレーの話はそういう話です。

考える力がなんちゃらといろいろ言われていますが、まず考えるという話をもう少しつき詰めて考えてみてください。
ものを考えるためには知識という原料・材料が必要です。カレーを作れと単に言われても、そもそもカレーとは何かがわからない人、カレーには何が使われているかわからない人には「作れ」という指示はかなり難しいでしょう。カレーとは何か、何が使われているのかをちゃんと教えてあげなければいけません。(例)の「食物連鎖」、[ケイソウ・バクテリア・ミジンコ・メダカ・ヤゴ]がどんなものかをまず知らなければいけません。そしてそのうえで、「考える」という作業が入ります。
「考える」とは「う〜ん、う〜ん」と問題や文字とにらめっこすることではありません。
カレーの作り方を考えるというとき目の前の原材料と調理器具とにらめっこしていてもそれは考えているということにはならないのです。「考える」というと頭を使うことと思われがちですが、頭だけではなく「手」も使わなければいけません。「手」を使うというのはとりあえず「試行錯誤」を繰り返しながらいろいろやってみることです。案外、ここを見落としている場合があります。
カレーの場合、インスタントのカレー粉を手にとれば、なんと作り方が書いてあるではないですか。食物連鎖についても、それぞれの生物を並べ替えればわかるではないですか。そういった作業がないままに、にらめっこを続けていてもそれは時間の無駄、というより本当の意味での「考える」という作業から遠ざかってしまいます。

中学数学の確率の問題、小学算数の場合の数の問題でも、ちょっと書き出してみればわかるものを問題とにらめっこしているだけで先に進まないという人はいませんか。本人は考えているつもりでしょうが、それは考えているうちには入りません。考えるという作業とは知識と試行錯誤による共同作業なのです。

考える力がなんちゃらの前提にはこうした姿勢が必要であることを子どもたちに伝えていくことこそ、本当の意味での考える力を育てる指導ということになるのではないかと思うのですが…。
posted by めがね先生 at 06:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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